tokageとかげ

出来事とたまに感情

受容する覚悟、もしくは資格

仕事中に、ふと考えて書いたメモを頼りに。

 

 

 

仕事中に余計なことを考えるなと思うのだが、

これは着想なんだ。

勝手に起きることなんだ。

仕方がない。そう仕方がない。

仕事はしているので許して欲しい。

 

 

人は他人の言葉を聞く。

話を聞く。

声を聞く。

口があり、耳があるから、言葉を介していろいろなものを受け取る。

それ自体は当然の営みだと思う。

人間に脳があって、感情や思考や理性や本能があって、それを出す出さないと選択して、

他人と生活をしないといけないのだから。

したい生活があり、したいけどできない生活もあり、どれもそれも「言葉」が必要だ。

 

それはわかっている。

 

今日、今、この瞬間一人で、孤独に苛まれていたとしても、

どこかで他人と生活をしないといけない。

と自分は思っている。

孤独で居れる人は、もちろんいると思うけど。

自分は少なくともそれではない。

自分は孤独には勝てない。

 

 

 

自分はさっき、他人に感謝された。

「ありがとうございます。」

「○○さんのおかげです。」

形式上、礼儀上、自分も、恐れ入りますとかありがたいお言葉ですとか、返答をする。

でも自分の中のどこかで、言われたその言葉が引っかかっているようで、どこにも引っかかっていないことがわかる。

人の感謝の気持ちが自分をすり抜けている感覚を感じた。

通り抜けるその言葉をもう一度見直してみようとおもったら、網目の大きい自分のザルはなんにも受け止めていなかった。

ああ、またなにも残っていない、悲しいな。

 

 

ありがとう、どういたしまして。

それは自分の中に、自分の自我の部屋に飾ってあげるものなのか。

そもそもその言葉はほんとうに自分を評価してくれてなのか。

なにもわからない。

自分の行為に対してありがとうと言われることに、

自分は、その自分を受け止めてあげることができない。

感謝にせよなににせよ、自分は自分を受け止めてあげることができない。

今日のそのひとつのイベントで、そう思ってしまった。

 

 

それはなにが足りないのか、そもそも何かが無くて起こっていることなのか。

もしくは自分にはそういう資格がないのか。

資格がないとできない機能なのか。

仕事でしたことでさえだ。

感謝されることに、いまだに抵抗とは言えないまでも、受け止めることさえできない。

自分が他人にしていることってなんだろうと思う。

どうせだれにでもできるし、替えが利くことだろう、とか、

いらないことを考えている。

 

休職中に思いついて、その時その時に思いついた自分の思考を全て記録して、

あまりのその量と質に、

すごくつらくて大変だったことを思い出した。

 

 

 

いつになったらそれを受け止めてあげることができるんだろう。

きっと、絶対そのほうが自分にとっていいことだし、しあわせな気持ちに近づけるのに。

どうしてそんな荊の思考をしているんだろう。

もう少し自分に優しく、適度に都合良く、楽させてあげればいいのに。

 

覚悟も資格もなくても、自分は自分の行為を認めてあげたい。

そう思った1日でした。

 

 

 

あすまでと、いわれた行為を 済ますだけ

そつなくこなすは とうめいな私

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