tokageとかげ

出来事とたまに感情

かがみよかがみよかがみさん

 

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

この世に理想とする人はどこかにいるのでしょうか

それはすでに発生していて、生活していて

同じように私を探しているのでしょうか

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

私は明日どこに行き、誰と出会い、

なにをするのでしょうか

 

カガミヨカガミよ鏡さん

どうしようもないわたくしは、

一体世のため人のためになにかいいことができているのでしょうか

私は自分がいまなにをしていて、なにができていて、

それで他人にどんな影響を与えているのか、

自分で評価してあげることができません

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

昨日の出来事は一体どんな影響があったのでしょうか

私は自分が他人にどう写っているのか、

自分の行動一つ一つが、

人のあらゆる負のトリガーになってしまっているのではないかと、

疑って仕方がありません

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

こうやって自分は自分に嘘をついて、

メリットのない、効率の低い人生活動を行っていくんでしょうか

その結果、おそらく後悔をして

誰かの名前を思い出すこともなく

最後の時間を迎えて死んでいくんでしょうか

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

死ぬってどういうことなんでしょう

誰かが自分のことを忘れるってことなんですか

でも自分は、そんな人の記憶に残るような人物なのでしょうか

私には理解できません

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

私は死んでもいいんでしょうか

私が、仮に今死んだとして、

それが誰かに気づかれるのはおそらく数日、

いや数週間、数ヶ月先のことと思います

そんなわたくしに、生きる価値などあるのでしょか

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

来世があるとしたら、なぜ来世に行くことが救いとならないんでしょうか

世の中は、死ぬことへの否定的な姿勢が強すぎます

私は死んでもいい

死んだほうがいい

どうせ死ぬんだから

明日死ぬとしてもいまなにかが変わるわけじゃない

なにかが限界を迎えてつらい思いをすることはわかりきっているんだから

そんな苦しみをわざわざ味わうことになんの意味があるんでしょうか

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

そんな私になんてことばをかけてくれるんですか?

救いの言葉ですか?

美しいとか、きれいとか言うんですか?

そんな言葉で私が前向きに人生を再び歩み始めるとでも思っているんですか?

 

カガミヨカガミヨ鏡さん

さあ、私を救ってください

 

服の話

 

 

 

「君はどうしてそんな服を着ているんだい?」

 

そう聞かれるのは、この人が初めてではない。

今までそのような問いかけをしてきた人は何人かいた。

無論、答えとしてはいくつかあるわけだが、今日も聞かれたからには答えてあげなくてはいけない。

 

「着たいなあと思った服を選んで買って、着ているだけだよ。」

「そりゃそうだろうけど、どんなことを考えて服を買っているのかなあと思ってさ。」

「うーん、あんまりブランドとかジェンダーとか流行りは気にせず、そもそも自分の家にテレビはないから流行りもあんまりわからないんだけどさ、本当にその時の気分だね、ふと町中の人を見て、ああいう服がいいなあと思ったらその足でおんなじような服を買いに行くこともあるし、なんのきっかけもなく思いつくこともあるし。」

「ファッション雑誌とかサイトとか人とか、参考にしているわけじゃないんだな。」

「そう、だね。」

 

まあいい落とし所だろう。

 

「今までどんな服を着てきたわけ?最初からそうだったわけじゃないでしょう。」

「今までか、もちろん最初は実家で母親が選んだ服を着ていた時期から始まるかな。」

「そこは普通なんだな。」

「フツウかどうかはわからないけど、服を買うお金は当時の自分にもなかったし選ぶ権利もなかったからね。」

「冷たい表現だな、どんな家庭なんだよ。」

 

確かに冷たいのは認めようかな。

 

 

「中学生の頃までは母に選ばれた服を素直になんの疑問も持たずに着ていたかな。小学生まではよくわからない年齢相応の衣服を着て、中学生は制服があったし、出かける機会もあまりなかった。」

「出かけないのか?それか部活をしていたんだっけ?」

「出かけないね、あんまり。田舎だったし一人で出かけるのはなかなかハードルが高かった。部活はしてたね、運動部だったからジャージとかを着て外に出ることも多かったかな。」

 

 

「自分で服を選んで買うのはいつ頃からだった?」

「本格的には大学に入ってからだったな。それまでは基本的には親のいいなりだったかなあ 。」

「また、冷たい表現。」

「仕方ないよ、事実だもの。」

 

 

「高校生も部活をしていたし、まあ一応服は親の選んだ服とかで妥協してきていたし、あんまりおしゃれに敏感でもなかったね。興味はあったのかもしれないけど、実家の中では無理だったんだ。」

「そんなことあるのかよ。」

「あるんだよ、当時の自分はそもそもお小遣い制ではなくて、自分が欲しい物があったらその都度親に申告したりしないといけなかったんだ。もちろんお金が必要だといえばくれるんだけどそれはそれでかなりのストレスだった。」

「親になにか頼むのがストレスってことか。」

「そう、実家の中で、家族の中で自分そんなことを言っちゃいけないってずっと思ってたんだ。自分にそんな役割はないって強く思ってた。」

 

別に知られて困る内容じゃないし、自分も話すのが苦なわけじゃないし。

話してみるか。

 

「大変だったねえ。」

「振り返ると大変だったかもしれないけど、もうそういう生活だったからね、それがフツウだったんだよ。」

「それが大変だったって言ってんの。」

「そりゃどうも。」

 

 

「大学生になって、ようやく自分のお金を自分の判断で使えるようになったね、お金だけじゃなくて、時間も場所も、意志もすべてさ。実家のことや両親のことを悪く思っていたりするわけじゃないけど、あのまま実家にいたら今の自分はいなかったように感じるよ。」

「実家を出れてよかったんだな。」

「まあ、いろいろあったし、本当は出れない可能性も高かったけど、無理を言って一人暮らしを強行したところはある、正直フツウじゃないことをなんとなく察していたんだろうな、それで実家をすぐ出たかったって思いもあったんだと思う。」

 

「冷たい家族だな。」

「否定しないよ」

「大学生になったら毎日服を着ないといけないからね、最初は大変だったな、それこそネットでどんな服を着たらいいか調べたり、服屋さんに通い詰めたこともあった。」

「意外とフツウじゃん。」

「自分にとっては異常だったよ。」

 

「今まで抑圧どころか発生すらしていなかった服への感情だったからね、困ったもんだよ、どれくらいその感情を大きくしていいかもわからないし、逆に小さすぎてどこをすくい上げていいかもわからなかった。ある意味大変だった。」

「まあ、俺にとってはフツウだけど、服どうしよとかね。」

「ふん、君はおしゃれだったもんね、高校生の頃から。」

「私服を見せたことあったか?」

「想像だよ、想像、きっとそう、部分的にそう。」

 

 

「まあでも正直、気づいたら服装の選び方が身について、気がついたら今みたいな服を着るようになったってのが本音だよ。なにか特別なセンスとかイベントが有ったわけじゃない。人に選んでもらったこともないし、何かを参考にしたわけじゃない、自分が素直に着たいと思う服を手に入れただけ。もちろん波とか傾向はあるし、昔なんでこんな服を買ったんだろうって思うこともあるよ。」

「そっかそっか、わかったよ。よくわからないけど、じゃあセンスってことなのかな、君のオシャレ感ってのは。」

「さあ、どうなんだろうね、自分が自分をおしゃれだなあと思うことはないし思えないよ、好きなものを着ているだけ、それが奇跡的に合っているだけ。」

「それがセンスなんじゃないの?」

「そっかなあ、悪い気はしないからいいけど、そういうことにしておくか。」

 

そうしたら、着ている服の選び方で、もしかしたらその人が今までどんな生活だったり、親との関係性だったりが、垣間見えるかもしれない。

 

そういう意味では自分はその人の着ている服を、どうして選んだんだろうと考えたり、そういう話を聞いたり、考えたりするのは好きなのかもしれない。

 

明日何を着ようと考える人の、明日が来るのはいいことだ。

着たい服を着れるのもいいことだ。

 

自分はまたあしたの服装を考えて眠りにつき、予定された服も明日を待つ。

朝になり、支度をし、衣装ケースから服を取り出し、

今日もいい服装だな、と思いながら家を出る。

異常だった感覚はいつの間にか消え失せ、いまではそれがフツウだ。

フツウでいいじゃんと言われることは、異常の上に成り立っているのか。

もしくは異常を重ねることでフツウに成り上がるのか。

フツウは異常の上位互換なのか。

 

 

 

 

自分にはそういう難しいことはわからないけど、今日も家に帰る。

明日を迎える。

大好きな服たちと一緒に。

 

 

 

 

 

 

 

思い、馳せ、想像する、そしてそれは現実にはならない

家に帰る。

家に帰るとまず鍵を閉める。

鍵を閉めてから、持っていた鍵をドアに付けたマグネットフックにかける。

靴を脱ぐ。靴を脱ぐと、玄関兼キッチンの電気をつける。

もし買い物に行ってきたら、冷蔵庫にそれらを入れる。

何もなければ、郵便受けを確認し、何かあれば取り出し、

何もなければ手を引き抜きリビングに向かう。

 

大抵はイヤホンを付けたまま帰宅する。

キッチンからリビングに入るまでにイヤホンを取る。

イヤホンはケースに戻し、充電ケーブルとつなぎ、棚に置く。

着ていたコートを脱ぎ、

ポケットに入っている携帯電話をディスプレイの前のテーブルに置く。

もしくは無印の大きなソファーに投げ捨てる。

洗濯物があれば、この時にリュックから取り出し洗濯機に入れる。

なければ、前髪をかき分け、クッションに横になる。

 

そこで僕は一人で会話をする。

相手がいないので、部屋に飾ってある花に話かけている。

 

「ただいま」

「おかえり」

「なにしてたの」

「何もしてなかったよ」

「なんだか元気がなさそう」

「だって寒いんだもの」

「寒くなってきたね」

「うん」

「秋ももう終わりかな」

「まだ早いよ」

「そっか」

 

現実にはいない相手と会話を一頻りする。

頭の中には理想の人間が何人かいる。

そのだれかを頭の中から現実に引っ張り出し、会話をする。

 

 

「仕事つかれたよ」

「わたしも」

「今日は何してたの?」

「何かしたわけじゃなくて、いつもと一緒なんだけどね」

「いつもなにしているんだっけ」

「コピーとかお茶汲みだよ」

「それも大変だね」

「うん、そっちは?」

「自分も何かあったわけじゃないけどね、今日は人の話を聞きすぎて疲れたよ」

「どんな話を聞いたの?」

「きょうは新しい人がきたから、その人の人生の話だよ、今までどんな生活をしていたとか」

「毎回、新しい人に、その人のそういう話を聞いて、楽しいの?」

「楽しい、というには違うけど、自分はしたくないなとは不思議と思わないんだよね」

「ね、不思議な人だよね」

 

 

もちろん部屋には一人だ。誰かがいるわけじゃない。

いるのは無機物の、自分の愛している好きなものたちだけ。

形のいい花瓶や、それに刺さっているお花。

最近買った小説や短歌。

昔読んでいた漫画。

打ち心地のいいキーボード。

 

自分の好きなものたちに話かけている。

 

もういいや、となると、

その会話達は唐突に終わる。

自分は起き上がりシャワーの準備にいくし、もの達は変わらずにそこにい続ける。

 

 

一見ただの妄想である。

でもそういう妄想に自分の生活は支えられていたりするような気がする。

 

それらが今まで現実になったことはない。

本当は会話なのだから相手がいて、生の返答があって、

そういう生活もいいんだろうとは思う。

いいんだろうとは思うんだが、

でもそれらは現実にはならない。

 

なんどもそういうことを経験してくると、現実にならないことを悲観することを忘れる。

 

それに争って目を背けて否定をしても、悲しいだけだからだ。

それらに自分が支えられているのだから、もう仕方がない。

支えられていなくても、もう自分の生活の一部なんだ。

 

でもそれらは、やはり現実にはならない。

 

 

 

なんとなくあるもの

気づいたら買っているもの、

気づいたら習慣になっている物事、

それらは気がついたときにはもう、

自分の一部分になっている。

 

今思えば全部ただ「なんとなく」で片がつくことであることには変わりがないのだが、なんとなくで済ませてはどこか悔しい気がする。

チャミスルなのかチャスミルなのか、そんな違いとは次元が違うのだ。

 

依然として変わらない生活もある中で、

変わってしまうものがあるのも生活だ。

 

 

いつからだろう。

基本的にお風呂に入ると言ったら、自分はシャワーになる。

その中でも自分はシャワーを浴びながら歯を磨くのが習慣だ。

なにかのテレビ番組で、お風呂に入りながら歯を磨くと肌にいいと聞いたことがあるような気がする。

自分は律儀にそんなことを、根拠も調べずに実践し、習慣となっているのか。

そう、それはそうなのだが、今思うと他にもトリガーになるような記憶があったような気する。

 

 

 

私はいまひとり暮らしをしているが、

ずっと昔、実家で暮らしていた頃を思い出す。

実家でお風呂に入っていた時を思い出す。

実家でまだ、父親とお風呂に入っていた頃を思い出す。

  

父親も、お風呂の中で、湯船に浸かりながら歯を磨くのだ。

当時は自分はあまり歯を磨くことが好きではなかった。

そもそも夜に歯を磨かない子供だった。

汚えガキであるには変わりないのだが、

なぜだか父親の真似をして歯を磨く気にはなれなかったのだ。

でも父親は、毎日変わらず湯船で歯を磨き続ける。

父親は歯を磨きながら何かを話していたようにも感じる、

でも覚えているのは父親が歯を磨いていたという事実だけである。

 

 

時間が過ぎていくと、

いつの間にか自分は父親とお風呂に入らなくなり、

一人でお風呂に入るようになる。

いつの間にか父親は単身赴任で200キロほど離れた土地に行ってしまう。

同時に自分は高校生になり、家に帰るのが遅くなる。

いつの間にか家の中で一番遅くにお風呂に入る人になってしまう。

 

家族の中で最後のお風呂に入りながら、

気づいたら自分も歯を磨くようになっていた。

 

求めていたのは、父親の歯磨き姿なのか、

ただただ自分の口の中が気持ち悪かったのか、

はたまた、父親に対しての感傷的な何かによってなのか。

「家族」の存在を求める何かのメタファーのようなものなのか。

 

 

 

可能性はいくつかあるのだが、

たぶんこれらはその気になれば「なんとなく」で済ませられる出来事の一つだ。

 

なんとなくコンビニに行き、なんとなくチョコボールとコーラを買い、

なんとなく家に帰りチョコボールのエンゼルを確認し、

あたっていないと落胆すらせずに、

なんとなくシャワーを浴びて、歯を磨く。

そんなものと一緒だ。

 

なんとなく過ぎていく時間と消えていく寿命とお金、

なんとなく過ぎていき、自分の周りに落ちていくものを拾い上げて、こねくり回して自分の身体や頭に塗りたくる。

そんな作業が決して必要で、いいことで、気持ちのいいことであるかはわからない。

でもそんなことをしながら自分は漠然と「なんとなく」に抗っていくんだと思う。

 

 

 

 

 

空を見る 雲の形で韻を踏む

踏まれているとは思うまい

 

 

 

 

 

 

毎日がクエスト

季節が変わろうとしている。

夏から秋に、なんなら冬の香りもそろそろしてくるんじゃなかろうか。

 

季節が変わるということは、人間は結構することがある。

することというよりもしなくてはいけないこともある。

 

夏服から秋服に、

家の中の装備も夏のものから秋や冬のものにしなくてはいけない。

しなくてはいけないわけじゃないが、したほうがいい。

 

涼しく過ごすための身の回りのものを今度は暖かく過ごすためのものに変える。

 

ベッドのシーツや枕カバーも暖かくて肌触りのいいものに。

毎日飲んでいたコーヒーや紅茶もアイスからホットに。

布団も薄いものから厚いものにする。

 

それは、どこかゲームで言うクエストのように感じてしまう。

ゲームに出てくるクエストは、要求される条件を満たせば、アイテムやシナリオの進行やお金がもらえる。

でも、現実世界はそんなにうまく行かない。

エストなんてものはないし、そもそもシナリオなんてない。

進行するものもない。

 

そうなのに、季節の変わり目に行ういわゆる「衣替え」がクエストのように感じた。

 

例えば、

エスト1:半袖をしまう

エスト2:夏の間使っていたベッドパッドを洗濯する。

エスト3:除湿機を片付けて加湿器の掃除をする。

エスト4:暖かい靴下を出して、くるぶし丈のものは片付ける。

エスト5:湯沸かし器の温度を少し上げる。

エスト6:夏のサンダルを洗って干す

等々。

ひとつづつ自分はクエストをクリアしていき、

一喜一憂なんてする暇もなく、

徐々に夏から秋へのパラダイム(?)シフトを遂げていく。

毎年のこととはいえ、正直まだ慣れていない。

 

 

 

 

 

 

 

夏から秋に、

季節が変わることを意識できるのが1番強いのは夏から秋であるような気がする。

空気も色も明るさも、匂いも雰囲気も、人の動きも唇の形も、明日を思う気持ちも夏を憂うことも。

グラデーションのように変わる日本の季節の中で、夏から秋になることは、はっきりと、秋だなと感じることができる。

どこかがやはりトリガーになっている。

 

「次は、秋、お乗り換えはこちらです」と

アナウンスをされるタイミングがやはりあるのだ。

それは、少し残酷で寂しいような気持ちになる。

 

 

自分はいまどこにいるんだろうか。

夏ではないと思うが、秋であるような確固たる自信もない。

冬というには先走りすぎている。

 

 

自分の存在や空気や、あらゆるものがふわふわ浮かんで曖昧になってしまう。

 

 

 

 

次は秋 夏から乗り換え 次は冬

各駅停車で乗せてって

 

 

 

ふつうにいいコップ

あるデザイナーさんの書いた本を読んだ。

「ふつう」というタイトルの本だった。

読みながら、自分にとっての「ふつう」を考えた。

読み終えて、「ふつう」は、いいものだなと感じた。

 

 

 

ふつうときいて思い浮かべるのは、漢字変換された「普通」だ。

ググってみると、

普通は「いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。」

だそうだ。

 

それは本当に普通なのかと感じた。

他と他を比べて初めて生成されるその感覚が、つまりの「普通」なのだろうか。

なにかとなにかの対比の結果に、それは「普通」と判断され、認識するものなのだろうか。

そもそもそれは、「さま」なのか。

「さま」かも「もの」かもしれないし、一連の考え方かもしれない。

そんな、何かの結果として生まれるものなら、

今この瞬間に現実世界に存在するかどうかも怪しい気がする。

 

 

 

 

ふつうの〇〇と言われれば、もうすこし想像しやすいかなと思う。

 

ふつうのコップはどうだろう。

頭の中に、一つのコップの像が浮かぶ。

自分は、透明の背の低い、重たいひとつのコップだった。

自動的に頭の中に生成されたそれが、自分にとってのふつうのコップだ。

きっとそのコップを、自分はふつうのコップだと感じるんだろう。

でもそれは今の瞬間、刹那的に生成されたふつうで、

仮に町中を歩き、ふと立ち寄ったお店でそれと全く同じものを見つけて、

ふつうのコップだとかんじるかどうかは、100%そうだとも言えないような気がする。

今の自分だからこそ感じた「ふつう」なんだと思う。

 

 

 

 

次に、ふつうにいいコップを想像してみる。

 

それは、いいコップとは違うはずだ。

いいコップだったら、それなりに値段がついていたり、希少なものだったり、

工芸的なものだったり、誰か権威のある人がいいコップであると認めていたりするのだろう。

それらはいいコップであることには変わりないけれど、

ふつうのコップとは、また違うような気がする。

 

 

ふつうにいいコップ、どうだろうか。

付加価値ではない、その人にしか感じられないふつうにいいコップはどこにあるんだろうか。

 

 

感じられるものがあるということは、

ふつうにいいコップは雰囲気があることになる。

ふつうにいいコップの周りには、他に影響を与える雰囲気がある。

周りのものとの調和や風情や、侘びしさ、

寂しさも内包しているようなデザインなんだと思う。

ふつうのいいものは、雰囲気を作れる。

 

 

 

 

 

 

ふつうはすでにどこかに存在するものなのか、

それとも、ものやデザインに対して生成されるものなのか。

自分の感じるふつうは、周りにとってしたら、ふつうではないのか。

 

 

ふつうは、

他人との間に生まれてくるものなのだろうか。

 

 

 

街を歩いていると、ふつうを身にまとっているような人はたしかにいる。

ある他人を、ふつうの友達だよ、と呼称することもある。

人ではなくても、この部屋はふつうだなと感じることもある。

それはふつうすぎると批判している人もいる。

どうやら、よいふつうとよくはないふつうがあるようだ。

ああ、ふつうは難しい。

 

 

 

 

正直、「ふつう」なんてものが何なのか、

そんなことは考えても考えなくてもいいことではある。

考えなくても、時間は過ぎるし、勝手に生きていける。

考えなくても、生きていれば無意識にひとは、物も人も環境も、その時その時に何かを選び手に入れて生きていくし、いらないものは捨てて生きていく。

ふつうというスケールなんて、後付けの飾りだと言われればそれまで。

いちいち、それが帰納的にふつうであることを、

時間もエネルギーも費やしてまで認識なんてしなくていい。

死ぬまでにしないといけないことでは決してない。

 

 

 

けれども、自分のふつうを考えてみると、

いまの自分のふつうが、どこに向いていて、周りにある人やものたちに対して、どう思っていて、何がよくて、何がわるくて、これは好きで、こっちは苦手で。

 

ひいては、それは決して他人にわかるものでもなく、自分だけがわかればいいものだったりする。

ふつうを求めることはべつに悪いことじゃないように思えてきた。

 

 

 

昔から、自分はふつうになりたいなと感じている。

それなのになぜだか自分は、ふつうじゃないところを闇雲にも探してしまう。

ひとしきりふつうじゃないところを列挙して、

ほら、自分はふつうじゃないとラベリングしてしまう。

そういう自分にも一定の価値を持っているということになる。

 

 

でも別にわるいことじゃないのだと思う。

ふつうになりたいと思うのは裏を返せば、

自分のふつうはこういうものだと考えることになる。

 

 

決して自分と他人と比べるなというわけではない。

ふつうじゃない自分を新たに見つけることもあると思う。

でもそこで悲しまなくてもいいと思う。

 

ふつうは、この世界にあるものでもないし、比べて生まれるものでもないし、

過去未来を憂うためのものでもない。

他人によって決まるものでもないし、自分を捻じ曲げてあげるためのものでもない。

今そのときに感じるものが、ふつうだからだ。

デザインとかものに対してだけじゃない。出来事に対してでもいいと思う。

 

ふつうにいいものが、どこかにきっとあるはずで、

そう思えるようになるだけで、なにかいい方向に向かうような気がする。

ふつうにいいものやひとのおかげで、ハッピーになれる気がする。

 

そうだよ、そうやって、いけばたぶん、ふつうにうまくいくと思う。

またこうやって、ふつうを考えながら生きていこうと思う。

ふつうにいいひとになれるように。

 

 

好きは流行りのよう

 

 


風のように飛んできて、気づいた時にはそこにない。

それはいわゆる流行りのように自分の周りを取り巻いている気がする。

 


好きだなと思っていたものは気づいたら好きだったのかなと疑っていたらまだいい方だ。

毎日毎時間考えていたあの人のことは、気づいたら考えていたことすら忘れている。

あの人は明日は何をしているんだろう、今は何しているんだろうと興味を持って馳せていたはずなのに、

自分のことを考えるだけで精一杯だったことを思い出す。

 

 

 

冬が来る前に口のなかに、木の実やクルミやらを貯めるリスのように、

春が来る頃には、口の中には何もない。

何も残らない。

 


リスはまだ、それらを養分にして生きていく。

自分の場合はそう、

空っぽの器もしくは枠だけ。

それだけが残る。

 

 

 

枠があるだけマシなのかもしれない。

一応の保管場所にはなるから。

でもそれはたぶん、一般的なものとは違うようで。

持ち上げたりしてすぐ枠から外れて溢れていく。

 


人への気持ちなんてそんなもので、

今日、今ここにある気持ちは、

明日には枠だけが持ち去られて、

残っているのは、燃え粕のような、

そこにあったことだけがわかるような、雰囲気だけ。

 


明日が来るのが怖いことがある。

今の気持ちや強い希望や想いや執着も、

ついぞ残っていたことはない。

 

 

 

あるのは今この時の、刹那的な感情のみ。

何かを思い続けたり大切にし続けたりすることはできない。

冷凍技術のなかった過去のようだ。

明日にはもう、使い物にならない。

保存できない思いは保存しない。

 

 

 

川や海が好きなのは、全部が水の中に誤魔化されるような気がするからかもしれない。

海に飛び込んで仕舞えば、水は少しずつ体を侵食して、最後には海になれたりするのかもしれない。

空を飛びたいよりも、海に飛び込みたいと言う気持ちが強いのは、そういうことかもしれない。

 

 

 

昨日のことは分からない。

明日のことも分からない。

これはもう治らない。