tokageとかげ

出来事とたまに感情

エッセイでもなく考察でもなく、ただの散文でもなく

 

 

最近文章を書いてないな。

 

何度も何度も思ってはいる、気持ちだった。

はてなブログの自動送信メールにも言われている。

1ヶ月文章を書いてませんよ。

わかっています。

書いていないんじゃなくて、書けていないんです。

書きたいんですよ。分かりますか?

分かっていたら聞かないですよね。

はあ。

と何度も何度も心の中でもやもやと会話をしていた。

 

 

 

 

今日も自分は仕事をしていた。

とある23区内の、

とある商店街で、横断的に移動していた。

電動アシスト自転車で移動していた。

西から東に移動していた。

いつもアシストモードを、「パワー」ではなく「オートマチック」にしては

坂道に差し掛かるとまた「パワー」に戻し、自分を甘やかす。

痩せたいから気が向いたらまた「オートマチック」に切り替える。

それを延々と繰り返す。

 

 

 

 

自転車を漕いで、商店街ならではの、

街灯の垂れ幕に目を配り、

最低限の危険予測をして漕ぎつつ、

今日も仕事をしていた。

 

 

そんな時に文章を書けてないなあと考えた。

ふと、

文章を書けてないなあという文章を書くか、

と何かが降りてきた。

いや、

降りてくることは今までにも何度かあったが、

今日こそは、今日こそは、と感じた。

次の訪問先に着く前に、

今日は書こう。

そう覚悟をした。

 

 

 

今日は書こう。今日書かないとダメだ。

いや、なにがダメだよ。

そう思いながら自転車は高架の下を潜り、大通りに出る。

程なく目的地に到着する。

自転車を降り、鍵をかける。

 

空を見たら飛行機が見えた。飛行機の音がしたから空を見たのか。

空を見たから飛行機が見えたのか。

またくだらない場合分けをして脳の貴重なリソースを使う。

 

 

 

 

 

そういうこともあって、今日は仕事を終え、

家に帰って即シャワーを浴びてキーボードを叩いている。

テーブルの上にビールとコンビニで買ってきたお寿司を置いて。

このお寿司はポイントで買ったものだ。

今日くらいは許して欲しい。

 

ビールの蓋を開けよう。

最後の泡が出るビールだ。

次飲めるのはいつになるだろう。

 

 

 

履歴を見ると、最後に文章を書いたのは1ヶ月以上前らしい。

記憶が正しければ体調を崩したタイミングだった。

そのタイミングで日記も文章も書くのを同時にやめてしまった。

定期的に、日記に関しては毎日書いていたのに、

そんなきっかけひとつで続いてたものはすぐ止まってしまった。

 

最初は大きくて滑らかなあったかい飴を、トングみたいなものを使ってビローンと伸ばし、少しずつ育てていた感覚だったが。

バツンと。

折れて切れて途絶えてしまった。

 

 

しかも途絶えたところで何も困ることがなかった。

1ヶ月経った今ではそう感じているし、たぶん実際に困ってはいない。

自分は日記を書かなくても文章を書かなくても困らない。

それは一つ発見ではあった。

 

 

 

ビールを一口、二口、口に含み喉を流れる。缶を置いて、またキーボードを叩く。

 

 

 

それからの生活で何か変化があっただろうか。

体調を崩してから、今の職場の社長に週4勤務にしてもらった。

3月中旬からまた週5に戻って今に至る。

 

 

そう。

去年末で、新卒で入職した会社を辞めて、今の職場に転職した。

前の会社は従業員規模が何千人、

その地域の医療を1、2位くらいで支えているとある会社だった。

入植した時は10年も20年もここで仕事するぞ!と勝手に意気込んでいた。

辞める瞬間は呆気なく、ロッカーの鍵と保険証と社員証を人事に返し、

社交辞令のような挨拶をして最後だった。

なんならすこし後半は人事に避けられていた。

それは別に悲観することではない。

もうあの会社に未練はない。

それは事実で、過去で、振り返る必要のないことだ。

 

 

 

今の会社は従業員7人、正確にはプラス数人いるが、常駐しているのは7人。

それがまず、とても気楽でよい。

気を遣う量が圧倒的に減った。

 

 

 

 

 

あ、ごめんなさい。今お寿司を食べていました。1巻だけです。

パソコンも膝の上からテーブルに移動しました。

私の3年前のMacBook airは最低スペック中古品なのでブワーンとファンが回っています。

はやく書き終えてあげないとパソコンもかわいそうになってきます。

 

 

 

 

そんな今の会社に転職できて、今のところはすごくよかった。

自分の時間も増えた。給料も上がった。

仕事をしてやりがいとまでは行かなくても、人に感謝されることが増えた。

社長にも先輩方にも直接褒められることが増えた。

恵まれている、ような気がする。

転職できてよかったと思う。

ずっとはここにいれない気持ちはあるけど、しばらくはここで頑張れそう。

生活もできそうだ。

そう感じながら仕事はできている。

 

 

 

仕事は楽しい。

そう、仕事は楽しい。

自分ができること、したいこと、して喜ばれることがちょうどよく重なっている。

完全に、ではないけど。前の職場よりかはマッチできている気がする。

 

 

仕事の楽しさ単体なら、前の仕事の方が楽しかったし、

同期や先輩も、前の職場の方が好きだったけど、

前の職場と上司にだけは合わなかった。

どちらを重視するか、なんだろうなと思う。

 

 

今の職場は自分が一番年下だ。経験も下だ。同期もいない。気を許せる先輩もいない。

それはそれで寂しいなと思うけれど、

それよりも自分を大切にできる自分が元気ならいいかなと思う。

 

 

 

ダメダメ、長くなりそう。今日はここまでにしておきます。

また文章を書かないと、

と思ったら、書くことにします。

書き始めて、書きたいことは頭の中に、

割とたくさん浮かんできて、それを選ぶのが楽しかった。

ビールもそろそろ半分くらい飲んでしまったことになる。

残りの半分はこれから飲みます。

 

 

 

 

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これはなにか手がかりや証拠になるのかもしれない

 

 

 

 

「わたしはね、これはなにかこう、

これは、大恋愛のようにも感じるし、大犯罪のようにも感じるし、

けれども、わたしは大成功とも大失敗とも思わないわ」

 

 

 

そう、その子に言われたのは数週間前のことだ。

今夜の夜のご飯は何にしようかと話している時だった。

わたしは昨日の朝や夜のご飯の聞き込みをし、

あまり意味のない思考を巡らせていた時だった。

一方的な意見とも感じない、だが私にくっつき離れず付いてくる、

その一言は私の心の中に深く刻み込まれるのだった。

 

 

※※※※※これは実際には起きていないことだ、

外を歩いていたらふと心の中に浮かんだ一言、

誰が、誰に言ったか分からないそれに、

くっつけることのできる物語を、

頭の中で生み出しているだけだ※※※※※

 

 

 

 

 

気がついてみれば今年の冬は寒いなと思うのは、

毎年のことだった。

冬は毎年決まった周期でやってきているわけだから、

同じ周期で自分は寒いと感じるようだ。

 

 

 

 

日本は広い。

 

 

自分が人生の半分以上を生きてきた、

これまで住んでいたところの「冬」と

今住んでいるところの「冬」は大きく違う。

絶対的に「寒い」のは過去に経験していた冬に違いないのだが、

今この時の冬も、あいも変わらず「寒い」のである。

 

 

 

 

 

「寒い」というのは、どういうことだろう。

雪があるかどうかではない。

吹雪で視界が真っ白になるかどうかではない。

明日の最高気温が5℃を切るかどうかではない。

ましてや、こたつにみかんを乗せるかどうかではない。

 

我々は、繊細なセンサーがたくさん身体にくっついているから、

あらゆる違いを感じるようにできている。

 

 

 

 

 

 

東京の冬は寒くない。

日々感じる冬の寒さは寒くない。

だが、私は、その東京の冬にいて、

だれかと東京の冬にいて、

その人と「寒い」という。

 

そうしたら、その「寒い」という言葉は嘘なのか。

 

 

 

嘘、ではない。

寒いのは事実だ。

そうそれは、

自分は一人でいるときにはそうは思わないだろう。

誰か、そう、人といる時に、「寒い」と伝えるのだろう。

そしてきっとその誰かも一緒に

「寒いね」と答えてくれる。

 

 

 

 

言葉や事実は相対的なものなんだと思う。

何回、何十回と、もしかしたら何百という言葉があったとしても、

それは相対的なものなんだと信じている。

 

 

 

 

「寒い」とか「暑い」とか。

過去の多くの経験や思い出や出来事が全てではない。

 

 

「ありがとう」も「好き」「嫌い」も

使われたかどうかではない。

 

 

同時にそれは使われなかった言葉があればいいということでもない。

ただ使い古された言葉が駄目ということでもない。

 

 

 

 

 

今まで、何を思って言ってきたのか。

「寒い」という言葉も。ほかの言葉たちも。

その言葉は決して無駄でも無用でも無力でもない。

 

 

そこにただ存在して、そこからひとに伝わり、

確かめられたかのようにそれらが感じられれば

いいのだと思う。

全部でなくてもいいのだろうし、

一部さえ伝われば救われることかもしれない。

 

 

 

 

 

ひとなんて、力がすごくあるわけでもない。

それなのに、自分では本当に抗えないことがある。

強大なわけでもなく、残虐なわけでもなく、

ただ、きっと、どうだろう、

もしかしたら。

自分が抗えないその人も無力なのかもしれない。

つよくありたいのだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、

絶対的な価値を求めて生きていくことは、

わたしには向いていない。

 

だから、成功でも失敗でもない、ならないのだろうか。

 

させてはいけない。

わたしの生活はわたしの生活。

あなたの生活はあなたの生活。

 

 

もうすこし続けていこうよ、探検のように。

分からないことばかり、言えないことばかり。

この紡げている言葉も不完全でいいか。

そんなことよりも、今日は寒いから、

はやくおうちに帰って暖まってね、冬は寒いから。

 

 

 

 

 

 

 

 

長く返答に困って、

「そうね」と。

 

そう答えてまた前を向く。

僕らは歩き出す。

気がついたら夜は朝になり。

冬は春になり。

明日は今日になる。

 

 

 

 

 

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快速現実行き

電車に乗っているとおもいだすことがある。

 

 

 

ガタンゴトンと。ファーンと、がやがやと、

機械の音も人の音も、

いろんな音がする電車の中で、

おもいだすことが一つだけある。

 

 

 

 

実家での生活の話だ。

自分がまだ小学生とか、そのあたりだった頃の話だ。

 

 

当時の自分の趣味は、

周りに合わせるかのように放課後のバスケットボールや陸上競技クラブにはいってみたり、

友人と外で遊んだり、その子の家で家庭用ゲームで遊んだりしていた。

それは別におかしなことではなく、一般的な児童としては普通の生活だったと思う。

それなりに友達もいて、やんちゃもして、泣いたり笑ったりしていた。

 

 

 

 

そんな自分に、

もう一つ趣味があった。

趣味というか、いつのにか出来上がっていた習慣とも言える。

 

 

自分の家の近くには、国道を挟んで歩いて5分ほどで電車の通る線路がある。

昔の国鉄の線路で今のJRだ。

 

小さい無人駅、複線の線路と踏切の駅がある。

今は利用者数が減ってしまったからか、本数も減りワンマン運転をしている。

自分が高校生くらいまでは普通に6両編成で1時間に1〜2本くらい出るような、普通の田舎の在来線だった。

 

自分の住んでいた都道府県は縦に長かったため、北と南を長く繋ぐ線路が必要だったらしい。

だから在来線だけでなく貨物列車もよく通っていた。

 

 

 

自分と、父親と、たまに姉もいたような気がする。

3人でその無人駅に行く。

夕方ごろにその駅に行って電車を見るという習慣があった。

 

 

 

自分は無心で電車を眺めていた。

緑と白の昔ながらの在来線も、たまにとおる快速の電車も、

田舎は快速も特急もお金を払わないと乗れないと思っていた。

都会は違うのだが。

 

 

ごく、ごく稀に黄色い電車が通る時もあった。

保線用の特別なやつなのだが、そういうのが通るたびに一人で喜んで父に笑顔で何かを話していたような気がする。綺麗な電車だなとか、かっこいいなとか、そういう話をしていたんじゃないかと思う。

 

でもいつのまにか自分はその特別な夕方の時間がなくなり、

中学生になると電車は部活の大会に行く時にしか利用しないものになって、

高校生になれば30分ほどかけて通学するために使うものになった。

 

高校を卒業するあたりで、なにやら新事業とかで私の住む市の鉄道事情は改変された。

そのあたりからちょうど自分は大学生になり、そこでの生活はしなくなり、新しくなった電車には実家に帰る際にしか乗らなくなった。

もちろん大学生のときも、引っ越した先でたまに電車をつかうことはあった。

でもそれは、自分が電車だと思っていたものではなく、

もう少し都会にある綺麗な電車たちだった。

大学に行くためにつかったり、朝帰りをするためにつかったり。

そういうものになっていた。

 

 

社会人になって上京してからは、

免許を持っていても運転できない自分にとって、

電車は移動手段としてとても重宝する。

時刻表を調べなくても数分待てば電車が来て、方向だけわかっておけばどこでもゆける。

たまに止まってしまうこともあるけど、それは致し方ない。

電車は人が作って人が使うために、人が操っているのだから。

そしてたまに事故も起こってしまう。

人間は完璧じゃないから。

 

 

 

 

電車に抱く想いは、そんなかんじで変わっていった。

昨日も今日も明日も、自分は電車に乗る。

きっと今の気持ちも何年後かに変わっていく。

 

 

 

電車に乗り、音を聞き、揺れを感じて、車窓を眺める。

流れる景色に自分は質量ごと動かされ、目的地に運ばれる。

降りたい駅につけば降りてしまう。

 

 

そうだ、自分は降りてしまう、という感覚で電車を降りる。

それは、もしかしたら、実家で無人駅に電車を見にいっていた頃の気持ちとなにか関係があるかもしれない。

もう2度と見れない、当時の電車たちや家族の様子や自分の感覚。

それらがもうなくて、失われるとは違くて、再現することはない、そういうことじゃなく。

じぶんが欲しかったのは、なんだったんだろうと、考えてしまう。

 

そんなことを思い出して、今日も電車に乗る。

 

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他人を支えられるなんて思わない

自分は他人の話を聞く。

ことが昔から多かった。

 

覚えている範囲だと中学生の頃あたりから、

他人の話を聞く側に回ることが多かった。

それは必然か偶然かわからないが、気がついたらそういう役割が多かった。

 

そんな自分が学生を経て社会人になっている。

他人の話を聞くこと自体は別に誰でも生きていればすることだと思う。

会社の中でも、家の中でも友達でも、

でも自分のしている「他人」の話を聞く、の他人は少々性質が違う。

 

自分は、綺麗な言葉を使うと、

困っていたり、辛そうにしていたらい、大変そうにしていたり、

そういう人の話を聞く。

 

 

そういう人の話を聞くのが、自分には合っているんだと思う。

好きなのかなとか、得意なのかなとか思った時期もあるけれど、

それは少し違くて、言葉としては「合っている」という表現が1番近いなと思う。

 

 

人の話を聞くのが合っている。

自分で言っておいてかなり綺麗事だと思う。

そんなことをじぶんのような人間がしてしまっていいのかと思うこともある。

でも、結果的に自分にとっても、相手にとっても、おそらく合っている場合もある。

自分はそういうひとなんだと思う。

ようにしている。

常にじゃないが、時に。自分はそういう価値がある役割なんだと思う。

 

 

人に何でもかんでも役割を付け加えるのはあんまり良くないような気もするけれど、

自分のことだからそれでいいんだ。

 

 

 

それが自分の言いたいことではないのだけど、

人の支援をしようとしている人のマインドを考えさせられる場面が最近あった。

それはどちらかというとネガティブなイベントだった。

ひとを支援しようとしてしていることが最終的にはその人を傷つけてしまっていた。

その人は、自分よりもおそらく人の話を聞くことに関してはプロの人で、

プロというか、プロになろうとして、

その人を支援することをじぶんが支援したいがためにしているような感じだったんだろうと予想している。

 

自分の考えも混ざっているけれど、

他人の支援なんて、しようと思ってするもんじゃないと思っている。

他人を変えたり、良くしたり、外側からそんなことできないと思っている。

できる人はいるんだろうけれど、それはふつうの人ができることじゃないと思うし、

自分にもできない。

それでも自分は他人の支援をしている、日々。

それは自分がそれをしたいからでも、それが得意だからでも、向いているからでもなく、

いまのじぶんがただ偶然に合っているからだと思う。

 

自分に合っていそうな人が、彷徨うように自分のところに来て、

ひとしれず自分と出会い、自分はその人の話を聞くんだと思う。

自分は大それたことは言えない。こうしろとかこうしたほうがいいなんて言わない。

死にたいとか言われたら、死にたいのはあなたの心の中の叫びだから、とそれを否定することはしない。

どんなあなた達でも、それはぜんぶあなた達のたいせつなあなた達だから。

 

自分は、自分はと、正直もう嫌になってきてしまった。

文章を書いていて気がついたこととしては、

じぶんはそういう自己満足のために他人に自分の存在価値を示す人が苦手なんだと思う。

じぶんはそういう人になりたくない。

今回の結末としてはそれでいいと思う。

 

 

いつかだよ、いつか、自分はそういう場所を作りたいなと思う。

自分に話を聞いて欲しい人がいつかいて、

自分はそういう人を受け止められる人に成れていて、そういう場所や時間を作れたらなと思う。

決して何かを楽にするためでなくてもいいから、かっちりきまったフォーマットがなくてもいいから、

自分がかろうじてできる、合っていることができるものを、f:id:tokagenisa:20210204205719j:image

それが必要な人に、仮にいたとしたときに届けられたらいいなと思う。

 

少しだけ、夢の話でした。

受容する覚悟、もしくは資格

仕事中に、ふと考えて書いたメモを頼りに。

 

 

 

仕事中に余計なことを考えるなと思うのだが、

これは着想なんだ。

勝手に起きることなんだ。

仕方がない。そう仕方がない。

仕事はしているので許して欲しい。

 

 

人は他人の言葉を聞く。

話を聞く。

声を聞く。

口があり、耳があるから、言葉を介していろいろなものを受け取る。

それ自体は当然の営みだと思う。

人間に脳があって、感情や思考や理性や本能があって、それを出す出さないと選択して、

他人と生活をしないといけないのだから。

したい生活があり、したいけどできない生活もあり、どれもそれも「言葉」が必要だ。

 

それはわかっている。

 

今日、今、この瞬間一人で、孤独に苛まれていたとしても、

どこかで他人と生活をしないといけない。

と自分は思っている。

孤独で居れる人は、もちろんいると思うけど。

自分は少なくともそれではない。

自分は孤独には勝てない。

 

 

 

自分はさっき、他人に感謝された。

「ありがとうございます。」

「○○さんのおかげです。」

形式上、礼儀上、自分も、恐れ入りますとかありがたいお言葉ですとか、返答をする。

でも自分の中のどこかで、言われたその言葉が引っかかっているようで、どこにも引っかかっていないことがわかる。

人の感謝の気持ちが自分をすり抜けている感覚を感じた。

通り抜けるその言葉をもう一度見直してみようとおもったら、網目の大きい自分のザルはなんにも受け止めていなかった。

ああ、またなにも残っていない、悲しいな。

 

 

ありがとう、どういたしまして。

それは自分の中に、自分の自我の部屋に飾ってあげるものなのか。

そもそもその言葉はほんとうに自分を評価してくれてなのか。

なにもわからない。

自分の行為に対してありがとうと言われることに、

自分は、その自分を受け止めてあげることができない。

感謝にせよなににせよ、自分は自分を受け止めてあげることができない。

今日のそのひとつのイベントで、そう思ってしまった。

 

 

それはなにが足りないのか、そもそも何かが無くて起こっていることなのか。

もしくは自分にはそういう資格がないのか。

資格がないとできない機能なのか。

仕事でしたことでさえだ。

感謝されることに、いまだに抵抗とは言えないまでも、受け止めることさえできない。

自分が他人にしていることってなんだろうと思う。

どうせだれにでもできるし、替えが利くことだろう、とか、

いらないことを考えている。

 

休職中に思いついて、その時その時に思いついた自分の思考を全て記録して、

あまりのその量と質に、

すごくつらくて大変だったことを思い出した。

 

 

 

いつになったらそれを受け止めてあげることができるんだろう。

きっと、絶対そのほうが自分にとっていいことだし、しあわせな気持ちに近づけるのに。

どうしてそんな荊の思考をしているんだろう。

もう少し自分に優しく、適度に都合良く、楽させてあげればいいのに。

 

覚悟も資格もなくても、自分は自分の行為を認めてあげたい。

そう思った1日でした。

 

 

 

あすまでと、いわれた行為を 済ますだけ

そつなくこなすは とうめいな私

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「触れている」「繋がっている」

わたくしは、仕事をしている。

仕方がないからという面もある。

でも、前向きに仕事をしているとも言える面もある。

 

 

 

 

とっても辛い現実の一つに、お金をある程度稼がないとしたい生活ができない。

資本主義だから仕方ない。

お金が必要ではある。

だから仕事をしているという側面ももちろんある。

 

 

でも自分は、お金のためよりももう少し大事なもののために仕事をしている側面もある。

 

 

 

自分のしている仕事は、直接「ひと」のためになっている(かもしれない)仕事だ。

 

こればっかりは、本当に自分のしている仕事が、仕事を受け取っている、

サービスされている側の感情や利益を観測しきれない部分が多いからだ。

人の生活のためになにかを消費している。

自分は自分の体と頭を消費している。

正直なところ、自分のしている「これ」が自分の職業の「本質」ではないのだが。

 

自分は、他人の身体に触れる仕事をしている。

時にマッサージとも言われるし、リラクゼーションとも言われるし、

作業的面接とも言われる。

呼び方は何でもいい。

 

 

 

ただ、自分は他人の身体に直接触れる仕事をしている。

その仕事もはや3年が経とうとしている。

前述の通り、他人の身体に触れるのが、1番の仕事ではない。

もっとするべきことやしなくてはいけないことはあるのだが、

その一部に他人に触れるという仕事があり、自分はそれをしている。

 

 

 

決して、決して、邪な意味はなく。

自分は他人に触れることができて、とても気持ちがいい。

気持ちがいいという表現だと語弊があるかもしれない。

 

他人の身体に触れてもいいという状況、

それによって相手の反応、表情が変わる。

その一連の時間が自分はすごく、いいなと感じる。

はっきりと自分も満たされているという観覚がある。

 

その中には実際に身体に直接行うマッサージ的な動作もそうだし、

しながら行う会話も全て、好きだと感じる。

これには根拠がないが、その人の身体に触ると、

なんとなくなにを考えているかわかる気がする。

今どんな感情なのか、緊張しているのか、恐れているのか

落ち着いているのか、心を許してくれているのか、

それらを触れると、ほんの少し確かめることができる。

 

そんなのを仕事にしてていいのか、と思ってしまうが、

自分にとってはある意味都合がいいとも言える。

それによって自分も満たされているし、相手も少し楽になってくれている(ような気がする)。

根拠がしっかり持てないのは、自分にも相手の反応にも、なにも根拠がないからだ。

完全に感覚やなんとなくの領域だからだ。

 

その仕事に、時に傷つけられることもあるし、

やるせなくなることもあるし、無力で手も足も出ない時もあるし、

それでも自分はそれに満たされている部分が大きい。

 

今日も明日も、他人の身体に触れる仕事をする。

それが天職かどうかはわからない。

ただ、今の自分を満たす一つの手段になっていることには変わりない。

 

ありがとう、他人の身体。

 

 

触れている 身体の上の その先も

口を開けずに はなしてごらん

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入浴剤のおかげ

最近だ。

ここ最近湯船に浸かることが多い。

浸かることが好きだからだ。

正確には好きになった。

 

 

 

もともと湯船に浸かる方だったわけではない。

一人暮らしを始めて、はや7年ほど経つ。

その生活の中で、湯船に浸かり始めたのはこの1ヶ月で指数関数的に増加している。 

 

 

それまでは冬でも夏でもシャワーだった。

湯船をいざ貯めても、また入りたいと思うことはそうそうなかった。

 

お湯が嫌いなわけではない。

温泉が嫌いなわけではない。

温泉は好きだ。

一人でも入りに行きたいと思える。

でも、自分の家で湯船に浸かるのとは、少し違うのだ。

その感覚は普通だと思う。

 

 

今は入浴剤にハマっている。

特に、花の匂いがする入浴剤にハマっている。

椿が今のところ好きな匂いだ。

 

 

この歳になってからも新たに好きなものが増えてきていて、自分は少し嬉しい。

もう、新しく好きになるものなんてそうそうないと思ってた。

数十年も生きれば日々の営みなんてそうそう変わるはずない。

大体が最適化されたものものだ。

でも、その中で、生活に必要なものが新たにできたというのはやはり嬉しい。

決して必要なものではない。不可欠なものではない。

入浴剤なんてなくてもいいものだ。

でももう自分はそういうものに、

自分の好きなものに好きと言い続けて、

こだわれる時はこだわっていたいと思う。

 

入浴剤のおかげで、自分が保たれたっていいじゃないかと、

思いながら今日も新しい入浴剤を買った。

 

ありがとう、入浴剤。

 

 

バスタブよ 包み込んで くれないか

溶けでるわたしは あたためるかな

 

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